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 雲辺寺への山道。5時45分、標高504メートル。
 

9.雲辺寺
  
3時に起床する。お接待の握り飯を食べ、今日一日のコースを地図で確認したりするものの、正直なところ時間をもてあました。早く歩き出したい気持ちは強いものの、山道はそれなりに明るくなってから歩こうと我慢する。
  5時になって出発した。母屋も、宿泊客がいる離れも、黒々として静まりかえっている。早立ちするのは私だけらしい。
  日の出時刻は5時28分だが、佐野集落の外れまで来ると、辺りは充分に白んで、道標も目視できる。雲辺寺への山道はとば口が徳島自動車建設によりねじ曲げられてしまったが、其処を過ぎれば、杉木立の中に、おそらく数百年前とさほど変わらぬ小径が続いている。
  多少息が荒くなったが、気持ち良く登り続ける。5時半になると、杉木立を透かして、東の尾根が赤く輝きはじめるのが垣間見え、5時38分になると真っ赤な朝日が浮かび上がった。
  傾斜が多少緩くなり、体調も整ってきたので、あえぎも収まり林間の道を快調に進む。6時になって見覚えのある畑を越えると、曼陀トンネルから続く舗装道路へ出た。

 曼陀トンネルから続く舗装道路。6時10分、標高670メートル。
 

  舗装道路に替わっても、この時刻であれば往来する車輌もなく、気持ち良く歩けることに変わりはない。6時40分に雲辺寺の境内が見えてきた。標高910メートルで八十八札所の中では一番高い位置に在るが、堂宇の規模は大きく、格調高い。
  ちなみに、「菩薩の道場伊予の国」から「涅槃の道場讃岐」へと云われているが、境目峠からはしばらくの間阿波を歩き、この雲辺寺も境内は徳島県にある。
  二十段ほどの石段を上がり、境内に入ると、先ほど追い越していった軽自動車で来たのか、六十代の夫婦(?)が、納経所の開くのを待つのか、所在なさそうに佇んでいる。

 雲辺寺から下る四国の道よりの景観。讃岐らしくいくつもの溜め池が見える。
 
 ヤマツツジか其処此処で満開だった。
 

  会釈して擦れ違い、本堂と大師堂を廻る。本堂は改修中のため仮本堂が設けられているが、別段拝むわけでもないので、そちらまでは行かず失礼して、すぐ下山し始めた。
  500メートルほど先にある中継アンテナ基地まで舗装道路が続き、間もなく「四国の道」として整備された遊歩道になる。ここら辺からようやく讃岐だ。
  雲辺寺の登りは標高差670メートルで下り740メートルだが、かなり長いと感じる。辛いことはないものの飽きてしまうのだ。 それでも辛抱を続けて下って行く。天気が良く、吹く風は爽やかで、讃岐平野の眺めも退屈を紛らわせてくれる。8時を廻ってようやく四国の道も終わり、ミカン畑の間を行く舗装道路へ出た。
  5分ほどで民宿青空がある。道ばたに縁台が置かれているので、拝借して靴紐を若干ゆるめる。洗濯物を干しに出てきた若い女将と目が合い、挨拶を交わす。感じの良い人で、この宿はインターネット上での評判も良いのだが、民宿岡田と近すぎて、両方泊まるわけにも行かない。
  静かで歩きやすく、長閑な道だけれども、変化に乏しく退屈する。溜め池をランドマーク替わりにしながら行くのは、水を見ると海でも池でも、何か心を和ませるものがあるからだ。太興寺に着いたのは9時半近くなっていた。
 

10.太興寺
 太興寺本堂。
 

  遍路道は本堂裏手に至り、此処から寺の横手を下る坂を行き、ぐるりと半円を描いて山門がある。遠回りなばかりか、もう一度石段を百段以上登らなければならない。初めて訪れたときは、なにやら判らぬまま裏口から彷徨い込んでしまったが、それ以後は馬鹿馬鹿しいと思いつつも儀礼的に表から境内に入る。車遍路らしい姿が二人いるだけだった。
  今回は団体遍路に遭遇することがなく、幸いだ。こちらは参拝する気などないのだから、彼等と行き会ったら立ち去ればよいのだけれど、暫時なりとその場の雰囲気に浸りたい気持ちもあるのだ。と云うことで、朝の爽やかな大気と静けさのもと、本堂と大師堂に挨拶して裏口から遍路道へ戻る。帰るときまで儀礼を守る気にはならなかった。
  観音寺市郊外の水田地帯を行く道は、幾筋にも分かれているので、ぼんやり歩いていると遍路道から外れてしまう。しかし昨年も通ったことだし、要所には保存協会の道標もあり、無事予讃線を踏切で横切り、財田川の三架橋を渡ると 、間もなく神恵じんね観音寺だ。 11時着。
  此処に来るのは六回目だが、団体遍路がいなくても、参拝者が多い印象を受ける。観音寺市街が近く、予讃線の観音寺駅から徒歩20分足らずの便利さ故に、遍路以外の人も多く訪れるのだろう。
  本堂はコンクリート造りの建物内にあるようなのでパスし、大師堂だけに挨拶して先を急ぐ。山門から東南東へ真っ直ぐ行くと財田川に突き当たり、此処から本山寺もとやまじ までは財田川に沿っての遍路道だ。
 

 本山寺五重塔。
 

11.道中交歓

  川の土手上に作られた道は、歩道も広々している上に、爽やかなそよ風が途切れることなく吹いていたため、車の交通量がそこそこ多いにもかかわらず、気持ち良く歩くことができる。土手上にでてすぐに見えた、5キロ先の本山寺五重塔も、良い目標となっ てくれる。
  途中に「かなくま餅」という饂飩屋がある。1930年頃創業し、元々街道を往来する旅人相手の茶店として、餅などを商っていたのが、そのうち饂飩も手打ちするようになったらしい。ちょっとばかり食指が動いたものの、5年前、覗いてみたら団体遍路でごった返しており七里結界とばかりに退散したことを思い出した。今、店の佇まいはひっそりしているが、酒を呑み始めたときに、大型バスなど乗り付けられては堪ったものではない。そんな可能性がないところを探そう。
  饂飩屋から先は他に飲食店もなく、12時ちょっと前に本山寺に着く。境内に入ると、(一説によると四国一美しいと云われる)五重塔が目を惹くが、明治時代の創建で、歴史的価値はさほどないらしい。
  ちなみに少し地味だけれど、1300年に建立された本堂は国宝だ。本堂から大師堂の方へと廻ると、先に参拝していたオバサン遍路二人が、こちらの姿を見て、多少戸惑いつつも声をかけてきた。一昨日、民宿岡田に泊まった人だ。
  昨晩の食卓で、給仕のため控えている岡田さんのすぐ隣を席として飲食していた。話しが途切れたとき、オヤジさんはふと思い出したように「明日、女性のお遍路さんに声をかけられるかもしれない」と、私に向かって云った。その前の晩に泊まった二人連れに、「スポーツ八十八ヶ所通し歩き編」を印刷・製本したものを見せたところ、一日違いで会えなかったことを残念がっていたらしい。そこでオヤジさんは「明日か、あさって、追い越されるかもしれないから、声をかけてみたら」と勧めたらしい。しかし追い着くことがあっても、これほど早いとは思っても見なかった。聞けば(足弱なのか慎重なのか)雲辺寺山越えに昨日一日を充てて、昨晩は太興寺隣の民宿おおひらに泊まったとのことだ。
  しばらく遍路道のことなど話し、別れる。彼女たちはこの日、弥谷寺までを予定しているそうだから、一日30キロ以下、雲辺寺山のような難所であれば、20キロ以下でも良しとするらしい。
  本山寺の門前町に、食堂は見つからず、結局、以前二回利用した和食の店「活き魚一平」に立ち寄った。カウンター席に坐り、冷や酒とカンパチの刺身を頼む。他に客もいなかったので、女将さんに携帯電話使用の了解を求めた。JR四国バスに電話し、明日の高松発、新神戸行き高速バスの予約をする。予約番号を控えたりしなければならないので、机(カウンター)などがないとやりにくい。
  予約が成立したので、改めてお品書きを見直す。鯛のあら煮を見付けて、これも追加注文した。急いで食べるのには向かない料理だが、それでも半時間で平らげ、ご飯や麺類はぬきのまま食事を終える。
  勘定を済ませて店を出ると、10メートルほど先の国道11号線を先ほどのオバサン遍路二人が横切って行く。彼我の歩行速度からすれば、すぐに追い着いてしまうが、時間を惜しんで歩きながら歯を磨いていたので、しばらくは一定間隔を置いて後を着いていった。
  300メートルほど行くと、遍路道は国道から右に逸れるが、先を行くオバサン達はそのまま国道を辿っていった。声をかけるほどのことでもないので、別ルートを歩む。歯磨きも終わり、本来の速度を回復し進むと、2キロ先で再び国道と合流したときには、二人の姿は遙か後方になっていた。
 「この程度の縁であったか」 と何となく納得し、先を急ぐ。この日の全行程は52キロほどで、まだ18キロ以上歩かなければならない。再び遍路道は国道から分岐し、あまたある溜め池の間を縫うようにして進む。20分ばかり歩いて、前方に遍路姿が見えた。すぐに追い着いたから、だいぶゆっくりした歩みだったはずだ。中年男性遍路まではすぐ見てとれるが、サングラスと帽子で、それ以上のことは判らなかった。
  挨拶をして一気に抜き去ることを予想していた。しかし初対面の微妙な印象が、そのまま別れてしまうことをためらわせるようなもので、それは相手も同様だったらしい。遍路に関する対話が、途切れることなく続いた。しかし、話しを続けるために、歩行速度を大幅に落としたわけではない。 せいぜい「トップギアをサードにシフトダウン」した程度で、彼の方がかなり歩みを早めたのだ。
  松山在住の人で、野宿主体の通し打ちを既に六回こなしているエキスパートだった。一巡目を終えた後、夢ならぬうつつに遍路道の情景が浮かぶことが頻繁に起こり、「これではあの情景がどこなのか、再度歩いて確かめるよりない」との気持ちに、背中を押されるようにして二巡目以降に旅立ったそうだ。
  私の方は、一日50キロ歩くのを目標とし、納経・朱印はもちろん、拝むこともしないで挨拶程度で済ませていることや、歩く力を鍛錬するために日常行っているトレーニング等を語った。
  当初は、せいぜい5分もすれば話題も尽きると思っていたが、とんでもない。妙にウマが合うところがあり、盛り上がる。最も意見が一致したのは「八十八箇所の神髄は、寺にあるのではなく、道にある」だった。道の情景に導かれて歩いている彼にせよ、スポーツ八十八箇所で、ひたすら歩くことに没頭している私にせよ、「寺ではなく道」はあまりにも明らかなことだった。
  「大師堂の前で、熱心に読経している人に『こんなところに御大師様はいませんよ. . . .』と云って、酷い目にあったことがある。」そうだ。確かに世間一般の、常識には反するだろうし、札所側の人間にとっては、さらに気持ちを逆なでするような発言と思うが、当方などにしてみれば「ごく当然」と思ってしまう。
  この朝、民宿岡田から旅立ち、雲辺寺を越えてきたことを話すと、野宿がほとんどだけれど、いくつか「必ず泊まる」ことにしている宿があり、その一つが民宿岡田だと云う。 これをきっかけに、この宿の良さについて語り合い、立地の良さ等、様々な要因はありながら、「所詮は岡田さんの人柄による」 ことで意見が一致した。
  何事においても意気投合したわけではない。例えば彼はかならず参拝、読経し、納経帳に朱印ももらっている。しかし逆に云えばその程度の差違がなければ気味が悪いし、対話も面白くならないだろう。
  彼の背負っている荷物は、通常の旅装に加え、食品と野営道具一式、さらに野宿を快適にするアメニティグッズなどで20キロを超えるようだ。この重みに耐え、黙々と歩き通して一ヶ月半くらいで一巡するらしい。「年々日にちが増えます」とも。今回の旅は、今日、観音寺から歩き始めたばかりで、五月一日に霊山寺(一番札所)をスタートするつもりの、いわば足慣らしらしい。暑い時期を避けるが、特に月は決めず、ともかく一日ついたちに霊山寺から旅立つことを繰り返し、それというのも「日で簡単に以前の旅と比較ができるから」だそうだ。
  単独野宿で廻る女性遍路の話しになった。NHKの遍路道紹介以後、ろくに事前調査もせず、無防備なまま一人歩く女性が増え、それにともない暴行事件等のトラブルも急増したらしい。「NHKがいいとこ取りばかりして、現実を知らせないから. . . .」と、彼は憤慨する。テレビの通り一遍な紹介など鵜呑みにする方が間違いとは思うものの、結果の悲惨さを思えば、公共放送の責任問題とも考えられるのだ。
  道が緩い上り坂になる。いつの間にか道の駅に隣接してある「いやだに温泉」の入り口まで来ていた。彼はこの日、道の駅で野宿予定だという。「初日からちょっとピッチを上げて歩きすぎました」と云われ、背負う荷の重量を考えれば、もう少しゆっくり歩くべきであったかと、心がうずく。
  しかし思い返せば、二人の相対的人間関係は、いつでも「もう少しゆっくり行くので、お先にどうぞ」と気兼ねなく云える、自由なものだった。その上で、歩行を多少きつく感じても、それを我慢して会話を続けようと思ってもらえたならば、随分光栄なことだ。

 弥谷寺本堂前から南を望む。
 

  別れ際に名刺を渡し、気が向いたらメールをくれるよう頼んだ。「名刺は持っていないんですが」と云いながら手渡してくれた紙片には「念ずれば花ひらく」と記されていた。師と仰ぐ坂村真民さんの詩の題名でもあり、その詩はご母堂が 常々口にしていたこの言葉に基づいているらしい。
  独りになって、歩行速度をトップギアに戻す。間もなくその名は優雅な俳句茶屋があり、石段が始まる。日常トレーニングのコースには、283段の石段もあり、これを二段ずつ昇降している。ならばとばかり、この石段も二段ずつ登 る。262段登ると、観音像があり、勾配を急にした鉄階段が108段。これも二段ずつ行くが、最後の辺りでさすがに息が上がり、追い越したオバサンから「凄いですね」と云われながら無言のまま通過した。すぐに「気分を害したか?」と反省する。「キツイです」と、喘ぎつつ正直に答えれば良かったものを、詰まらぬ見栄を張ったことが恥ずかしい。
  ともかく休まずさらに170の石段を登り、ようやく本堂にたどり着く。堂宇は質素なものだけれど、何面に開けた眺望は素晴らしく、吹き上げてくるそよ風が、階段登りに上気した身体に快い。しかし二枚写真を撮っただけで、すぐ次なる出釈迦寺へと向かった。
  階段を下り、俳句茶屋の少し先で歩き遍路道が分岐する。なだらかな下りが続き、高松自動車道をくぐると、讃岐平野で、其処此処に溜め池のある、畑・田圃地帯を行く。出釈迦寺、曼荼羅寺、甲山寺、と順調に廻り、善通寺に着いたのは5時を少し廻っていた。

12.終章
 善通寺五重塔。
 

  さすが境内に人が多いけれど、広いし納経所も閉まった後だから、混雑とは無縁な状態だった。まず西院の御影堂を訪ねる。しかし5時を過ぎたためか既に戸を立てて閉め切られた状態だった。
  もし開いていたとしても、此処で何を見たいという目的もなかったので、しばらく佇んだ後踵を返し、一旦仁王門から出て、そのまま直進しすると東院の境内に入った。こちらには本堂や五重塔がある。
  写真を二枚撮っただけで、すぐ赤門から寺外へと出た。岡田さんに電話をかける。まず夕食前の一番忙しそうな時刻に電話することを詫び、今日一日のトピックスを報告する。既に善通寺を通過したと、告げると「やっぱり早いノウ」と、半ば感心、半ば呆れたような返事だ。その他、本山寺で女性遍路に声をかけられたことや、松山の男性遍路と、一時間近く一緒に歩いたことなども話し、良い思い出ができたことと、それが岡田さんのお陰と感謝の念を伝えて電話を切る。
  此処から宿までは善通寺町の場末を歩いて1キロほどで、この日の全行程52キロも終わったようなものだ。明日はのんびり坂出までの17キロを歩けば、今回の「八十八カ所つまみ食い紀行伊予編」も無事終了となる。天候にも恵まれ、思い出になる出会いもあり、「良い旅であった」と、既に旅を 回想するような気分で、暮れ始めた通りを善通寺ステーションホテルへと向かった。

―― 八十八カ所つまみ食い紀行伊予編 完 ――

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