スポーツ88カ所つまみ食い紀行

***目次***
1.七子峠ななことうげ
2.再挑戦
3.
鰹のタタキ
4.安宿あんしゅく
5.地形図
6.西欧人遍路
7.歯長はなが
8.
安井食堂
9.同行者
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七子峠

 
 
大阪谷川の扇状地。国道は丘陵地帯上部、添蚯蚓遍路道は頂部を通過する。
 
  通常は頬笑ましいような滝だが、降雨の際には流水で通行不能になることも、しばしばあるらしい。
 

 4月16日、岡山で夜行寝台列車「サンライズ瀬戸」から、特急南風一号に乗り換え、久礼くれに着いたのは定刻10時41分だった。この日の予定は窪川までの22キロ、急ぐ必要も無いけれど、簡単に身支度を調え出発した。
  久礼から七子峠までの7キロは山越えの添蚯蚓そえみみず遍路道と、大阪谷川沿いを行く二通りがあり、前二回続けて山越えをしたので、今回は九年ぶりに下を行く。
  久礼の集落を5分ほどで抜けると、大阪谷川の扇状地に田圃が拡がり、長閑な田園風景になる。川沿いの道を1時間ほど辿るあいだに、両側から斜面が迫り、奥大阪を過ぎたところで舗装も尽き、幅1メートルほどの山徑になった。
  前日が雨であったらしく、所々ぬかるんではいるものの、歩きやすい徑は整備の状態もよい。半時間登りが続き、快調に高度を稼いだ。国道を通る車両のエンジン音が次第に大きくなり、最後は階段を登って舗装道路へ出る。目の前にななこ茶屋、振り返ると久礼の海が見える。時刻も12時20分と手頃だったので昼食にした。
  冷や酒を頼んで、ツマミはオデン鍋から好みのものを自分で選べる。長年使い込んで真っ黒くなった竹串に刺さる、卵とがんもどき、蒟蒻にした。四国のおでんは料金一律、竹串の数で決まる明瞭会計だ。酒を二杯追加し、最後に掛け饂飩を貰う。呑んだ時間を含め、40分で昼休みを終えた。

上:道の駅で人だかりがしていた。通りすがりに警備員に尋ねたところ「餅撒き」が終わったところだとか。左下:国道は土讃線と着いたり離れたりし ながら続く。右下:歩きやすいものの味気ない状況が続く。
 

ななこ茶屋ではオバサン遍路が先客でいた。20分くらい早く出たので「窪川までには追い越すであろう」と思っていたが、峠を下りきらないうちに道端の休憩所で四国遍路一人歩き同行二人を見ながら腰を下ろしている。「今日は」の一言で通過したが、「あれほど悠長なペースで、何時に窪川へ着くことやら?」と考えた。まあ日が暮れたところで、国道を行くのだから迷うこともないし、タクシーを呼ぶことなども簡単にできるから、心配するような話ではないが。
 気温は21℃あり、シャツの袖をまくり上げて歩く。峠から約5キロは国道と平行する鄙びた舗装道路を辿ることができたが、その後はひたすら我慢して国道に設けられた歩道を行く。 国道を利用しなければならない区間が10キロと短いことが救いで、3時半には窪川の市街へ、そして46分、三十七番札所の岩本寺へ到着。今宵の宿、美馬旅館は山門から100メー トルのところにある。結局この日の歩行距離は23キロということになった。

 
美馬旅館。
 
 

投宿する前にすぐそばのコンビニエンスストアにより、明日の朝食用弁当や、サラダ、ペットボトルのお茶を仕入れる。
  美馬旅館は戦前の建物と思われる。設備に多少ガタがきてはいるものの、昔風の落ち着いた雰囲気が好ましい。八十八カ所で泊まった数百の宿を比較すれば、上位にランクしたいところだ。提供された部屋は八畳で六畳の次の間と広縁が付いた、この宿としては最高位の格付けだろう。
  同宿だった三人はいずれも遍路らしく、一人は定年を迎えて通し打ちに挑戦中と云った感じの六十男、他の二人は七十近い夫婦だった。
  六十男とは風呂場で一緒になったこともあり、食事の際にも言葉を交わすが、酒を飲まない人なので食卓は別のままにする。五杯飲んでからご飯で仕上げ。早立ちに備え、7時前に夕食を終え料金を精算する。一泊一食、酒込みで9,600円。すぐに就寝した。

再挑戦

17日の月曜日、腕時計のアラームで3時に起床した。朝食の弁当を食べながら今日の行程を地図上で確かめ、キロ程などを書き込む。食事と準備ならば1時間もあれば充分だけれど、早起きしたのは理由がある。久しい以前から腸症候群的傾向があり、旅先(特にトイレのないところ)で、腹具合が悪くなる。午後に問題の起きることはないため、起き抜けからの時間を、少しでも長くして予防に努めているのだ。
  5時に宿を出る。同宿者がいるらしい二階には明かりがともっていたが、厨房や帳場の方は人気がなかった。辺りはようやく白みかけた状態で、明けの明星が煌々と光を放っている。どうやら今日も良い天気らしい。しかし寒さは厳しく、寒暖計は3℃を示していた。 明るくなってから見たところでは霜も降ったらしい。部屋の中でも8℃だったから、関東にいるより高知の方が寒いのかと思う。
  5時半には充分明るくなり、山徑を歩く6時には完全に明け放った。2年前の記憶が残る、清掃工場(窪川町環境美化センター)脇を通り、林間のほの暗い徑を行く。約20分で再び国道へ合流。快調に歩けていることを確認して気分を良くする。 ここで防寒用(スキー用)肌着のシャツを脱ぐ。
  今回八十八カ所で、この部分を歩く理由は、ひとえに「再挑戦」のためだ。前回八十八カ所を通しで歩いたとき、室戸岬を回った辺りで足を痛め、無理を重ねて何とか一日50キロ近く歩き続け た。しかしそれも宇和島から40キロで、腫れ上がった足が一歩踏み出すたびに小砂利を素足で歩くように痛 むため、内子まで行くのを断念し大洲でダウンした。
  爾来、繰り返しこれを想起しては口惜しい思いをしてきた。再び八十八カ所、1,150キロをもう一度通して歩く気にはなれないけれど、部分的には 無念を晴らしたい。一方で宇和島、内子間だけであれば、既に2003年3月に歩き通した実績がある。そこで約200キロを前段として、最後に50キロを歩いて内子にゴールするのが今回の計画だ。そして清掃工場からの山徑は2年前、痛む足を庇いながら、ひたすら穏やかに歩いて、通常よりも多大な時間を費やしたのであった。

鰹のタタキ

山徑を気持ち良く通過したのはよいが、そこから先は国道56号線の味気ない 路肩を歩かされる。多少なりとも救いは、朝早いせいか交通量が少ないことと、景観が伸びやかで道の屈曲に従い変化して行くのを楽しめたことだろうか。
  8時を廻って伊予喜に至り、久々に国道を離れる。山間の扇状地から熊井隧道を抜ける。このトンネルは今見れば煉瓦積みの慎ましげな印象だが、1905年に竣工したときは、高知と中村を結ぶメインルートであったらしい。

  鹿島が浦ごしに佐賀の町を振り返る。

 トンネルからすぐ土佐くろしお鉄道を渡り、まもなく佐賀の町に入った。再び国道歩きとなるが、海を眺めながら行くのは気持ち良い。左手の崖下には白波が打ち寄せ、右手に迫る山の斜面に、土佐くろしお鉄道がへばりつくように走っている。
  灘の集落 が前方に見えてきた辺りで、十人ほどの遍路を追い越した。七十前後のバアサンでジイサンは一人だけいる。先頭を歩くのは若い男で白装束も着けず、携帯電話で話し続けていた。どうやら彼はプロ(専業ではないにしても有料のガイド)らし く、話の内容も宿との交渉だ。
  そうと判れば連中の背負っている荷物が、歩き遍路としては異常に少ないことも納得が行く。宿所から次の宿所へまとめて車で運んで、本人が持つのは飲料と雨具ぐらいなのだろう。
  彼女達を追い越す際に一声挨拶すると、こちらの歩みを見て口々に「速いネ、速いネ」とほめてくれるが、バアサン達に較べれば、倍の速さで歩いても大したことではないから、あまり嬉しくもならない。
  灘で道は右へ直角に曲がり、井の岬トンネルを抜ける。風景が変わり、左手に浜が、そして道路の両側には田圃の拡がるところが多い。
  UMINOOOMUKAEという道標があり、その文字を想像できずにいたが、しばらくして海の王迎え駅の道標を見る。ご大層な名前だが、それなりの由緒があるのだろうか。そこからまもなく民宿・喫茶ビッグマリーンがある。  

 この辺りは鯨が売り物らしく「鯨の見える丘公園」などもある。  ビッグマリーン。
 

2年前に鰹のタタキで昼飯・昼酒をやったところだ。店に入って、荷物を降ろす前に「お酒を冷やで飲めますか?」と念のために訊いた。あくまでも「念のため」の積もりが、ウェイトレスのねえさんは「ありませんよ」とあっさりいう。なければ店を代えるだけだが、「2年前にはあったけれど」と駄目を押すと、自信をなくしたのか内線電話で問い合わせ、「土佐鶴がありました」と、カウンターの下から紙パックを取り出した。
  ようやく荷物を降ろして落ち着く。以前食したタタキは絶品だったわけでもないが、ともかく今朝は「昼にはタタキで一杯」をバネにして歩いてきた。そこでこれを注文するが、ねえさんは「これは間違いなくありません」とにべもない。こちらもそれほどの執念はないから、あっさりメニューを一瞥し、焼き肉定食があったので、「焼き肉を単品で」注文した。
  奥からオーナーらしいオバサンが出てきて焼き肉を調理し運んでくれる。雑談になり、朝から30キロの道のりを「タタキで一杯」を楽しみに辿ってきたことなどを話しつつ、二杯目を所望。遍路道歩きの四方山話と、これからも約30キロ歩かねばならぬことなどを話して三杯目を追加すると、「そんなに飲んで歩けますか?」などいいながら、グラスへの盛りは二杯目よりさらに多い。
  何となく座が和んだけれど、ペースを落とすことなく昼飯昼酒を半時間で終える。「三杯は日常」と大口を叩いた手前、少なくとも店を出るまでは躓いたりしないように気を付けた。

 入野松原一帯は公園になっている。  四万十川大橋。

海岸沿いに続く国道を20分ほど歩くと、入野松原一帯が公園になり、遍路道はそちらへ分岐する。面白味のない公園を抜け、田浦集落を出たところで、かつては遍路道が分岐していた。左へ行けば四万十川河口で渡し船を利用する古来からの道、右は四万十川大橋を渡る新道。ちなみに中村市街を通るルートは手前の公園中で分岐する。  
  97年の春に八十八カ所を巡ったときには渡し船を利用した。しかし今や分岐に制札があり、黒々と05年の12月で渡し船が廃止になったと記されている。一日に五往復しかない渡船は、目一杯歩こうとするものにとって利用しづらいものであったが、一抹の寂しさを感じる。
  便利ではあるが、趣に欠ける道をひたすら歩き、四万十川大橋を渡れば、残りは14キロほど。気分的には余裕が出るけれど、スピードは落とさず行く。津蔵淵 川に沿い内陸部に入り、扇状地から山間に分け入ると上り坂が続く。延長1620メートルの新伊豆田トンネルを排気ガスに悩まされながら通過し、市ノ瀬川流域に入る。

安宿あんしゅく

半時間で右から下ノ加江川が合流し田圃が拡がる。河口近くにある安宿がこの日の宿だ。 奇妙な読み方をするが、宿を開いた先代が「安心して泊まれる宿」を願って命名したとか。4時半の到着で歩行距離58キロ。上り下りが少なく、距離を歩くには楽なコースだった。
  この宿は前回も満員であったが、今回もそれに近いようだ。四万十川を渡ってしまうと、此処まで他の宿がないという立地条件にもよるだろうが、評判もそれなりに良いらしい。正直なところ好きな宿とはいえないけれど、遍路道情報の収集なども抜かりがないし、食事は実質的で品数豊富だ。
  夕食時には四人掛けのテーブル四つが全て埋まる。中高年の男ばかりで一人を除き歩き遍路、それも通しが多いようだ。ちなみに歩きではない一人は自転車で巡る七十過ぎのジイサンだ。そんなメンバー構成だったためか、夕食は和気藹々のうちに進行した。ほとんど全員がアルコールを飲んだこともこれを促進したかもしれない。適当に坐った席の向かいでは、自転車のジイサンがニコニコしながらビールを飲んでいる。酒量はともかく好きらしい。
  夕食後、明日の朝食は握り飯に代え、今晩中に部屋の外へ置いて貰うことにして、勘定を清算する。宿代6,000円に酒代5本分が2,000円だった。

地形図
 

  下ノ加江川5時31分。

 4月18日も3時起床、5時出発。オヤジは既に調理場で朝食の支度をしていた。挨拶をして表へ出たがすぐ出戻る。気温8℃で防寒シャツはいるまいと思っていたのが、意外に風が冷たかったためだ。シャツ を着込んで再出発する。
  昨日は下ノ加江川沿いを下流へ向かったが、今朝は対岸を上流へ向かう。三原村への県道分岐点では充分明るくなり、道標や周辺の状況も充分に見て取ることができる。 気温は10℃で、先程の北風も分岐を過ぎてからは山脈に遮られ止んでしまったため暖かく感じる。
  分岐を過ぎれば後は一本道なので、道に迷いようもない。それでも地形図と現況を見較べながら歩いたのは、進行速度を把握しながら行きたかったためだ。大川内の集落を過ぎる辺りまでで、時速5キロ。いささか遅すぎるように思うが、昨日の実績もそんなところだ。
  山間部を流れる下ノ加江川は蛇行の度合いが甚だしく、それに合わせて県道も蛇行している。現在建設中の新道が完成すれば、距離的には半分くらいになりそうだが、大金を投じて建設する価値があるのかは大いに疑問だし、当節の公共事業縮小のあおりを受けているのか、2年前に較べて、いくらも進捗していないようだ。
  鶴ヶ市集落の手前で橋を渡り、地形図と比較して流れの方向が逆であることに気付いた。勿論そのようなことはあり得ないので、一瞬、道を間違えたかと不安になる。一度歩いたことのある道筋だし、奥深い山の中を流れに沿って行く一本道だから、間違えようはないはずだが。
  次の橋でも現況と図が合わないので、「先ばかり急いでも仕方ない」と、歩みを緩やかにし、じっくり地形図を読み直す。現在位置を間違えているとしか思えず、一枚前の図に戻ってみた。鶴ヶ市の手前3キロにある芳井こそが現在位置だ。先を急ぎ読図をおろそかにし、加えて自分が歩行した距離を過大に評価する悪癖が出たようだ。

  手作り地形図。今回歩いた約240キロで35枚ほどになった
 

ちなみに今回は三万分の一地形図を手作りし持参している。初めての試行だが、国土地理院のインターネットサービスを利用し、元となる画像を加工し、縮尺を三万分の一に変更し、さらに遍路道ルートをマークしたものを印刷した。一枚の地図は、横21センチ、縦18センチになる。これを使用する利点は多々ある。
・最新地図を使用できる
  道路を中心に、地形図が変化することは多い。インターネット版ならば、少なくとも国土地理院が把握する最新情報を利用できる。
・安価
  二万五千分の一地形図の定価は270円。サイズが異なるので比較に無理があるが、手作り地図はインク代の30円程度。
・風雨時の利用しやすさ
  降雨時に濡れぬように地図を扱ったり、強風時に上手く地図を拡げるのは難しい。それが一緒になれば、ほとんど読図は不可能になる。しかし横21センチ、縦18センチならば、簡単にポリ袋の中に収めたまま扱えるので、濡れる心配はないし、面積が小さいので、強風であおられることも少ない。
  縮尺が三万分の一なのは、ダウンロードした一画像をA4用紙の中に収めようとした結果だ。あまり使いやすい縮尺とはいえないので、再考の余地はある。

 中筋川ダム。
 

閑話休題、いつものことだが、休憩は取らずに歩き続ける。立ち止まったのは防寒シャツを脱いでザックにしまうときだけで、船ヶ峠は9時10分前に通過した。流域が下ノ加江川から中筋川に替わる。
  ちなみにこの川はこの辺りでこそ西へ流れるが、宿毛の方へは行かず、北へ転じ、さらには東へ流れ中村近辺で四万十川に注いでいる。
  それはさておき緩い下り坂になった道を快調に進むと、中筋川ダムを縦貫するダム道路を利用することになる。往時の遍路道がどのようになっていたかは判らないが、距離的にだいぶ短縮されたことは間違いない。
  この中筋川ダムは、ダム高さ71.6メートルで、当初予算の倍以上の493億円をつぎ込みながら、当初の見通しに誤りがあったため、計画水位まで湛水できないでいるらしい。2年前に通過したときも、現在と同じように、ダムというよりは淵と云った方が良さそうな情けない状態だった。
  ダム部分に設けられた道路は水平に続き、途中堤体へ繋がる道路を左に分離しトンネルになる。トンネルを出るとかなり急勾配で一気に下り、扇状地にたどり着いたところで川と離れる。
  すぐに上駄場の集落があり、此処でダム道路と別れると、しばらくのあいだ(多分)昔ながらの遍路道を辿る。集落のあいだを緩く左右へのカーブを繰り返す道筋は、人が踏み分けて作ったものに違いない。土佐くろしお鉄道の高架橋をくぐると間もなく国道56号線にぶつかり、あとは20分ほどで三十九番札所の延光寺に到着する。  

  三十九番札所、延光寺本堂。
 

 幸い大型バスによる団体などはおらず、境内には自家用車で訪れたらしい数人が、ひっそりと読経や納経をおこなっていた。そのお陰で、本堂と大師堂の前で拝まないながらも、内心ゆっくり挨拶をすることができた。
  延光寺の参道には以前から「へんくつ屋」と「嶋屋」の民宿二軒がある。へんくつを屋号にするようなところに興味はないが、嶋屋には思い出があった。
  97年10月に下ノ加江から歩き始め、足摺岬、月山神社などを二泊して廻り、最後に訪れたのが延光寺だった。午前中であったが日射しが強く、喉の渇きを強く感じて、寺からの帰途、牛乳を求めたのが嶋屋で、丁度畑仕事から帰ってきたバアサマが主らしく、近所の人が「早く出してあげなくては. . . .」というのに、畑の収穫物を片付けながら「マア、そう急がずとも。お接待しておくから」といいながら冷えた牛乳を出してくれた。
  巡礼ではないから「お接待」は困る。しかしこの場合、好意を無下に断るのは礼節を欠くくように思われ、軽く合掌していただいた。
  それ以降、嶋屋の前を通るのは三回目になる。たとえ一言にせよお礼か挨拶をしたいと思いつつ、無人のため果たさず、この日もひとけのないまま閉じられたガラス戸を横目で見て通りすぎた。

  ドライブイン欄。
 

 延光寺を訪れる歩き遍路は、宿毛すくも方面から来て、同じ道を戻る方が多いらしい。私自身、最初の二回はそのルートだった。そんな理由なのか寺から数百メートルで、左へ折れて小さな峠を越える分岐点に道標はなく(正確に いえば道標があるものの、寺から歩いてくると見えにくい)、間違えて直進する可能性が高い。しかし逆に「迷いやすく、道標がない」ことが強く印象に残るせいか、2年前も今回も、とまどうことなく小峠を越えた。
  峠を下るとまた国道56号線を歩かなければならない。しかし若干の楽しみもあった。数分以内のところに、2年前昼食を摂った中華ドライブインがある。つぶれたり定休日でない限り、ここで昼飯と決めて歩いたこの日の6時間だった。
  幸いなことに裏切られることもなく、そして時分どきには1時間早いため、先客一人だけの店に入る。冷や酒と焼き餃子を注文し、一口飲んで酢豚を追加した。ちなみに餃子メニューは「焼き」と「揚げ」で「水」はない。昨晩の安宿でも揚げ餃子が出たから、高知ではこれが一般的なのかもしれない。
  酢豚も餃子も旨かったが、ひたすらせわしなく流し込み、三杯目の冷や酒を頼むとき、一緒に五目ラーメンを麺少なめで注文する。半時間ちょっとで店を出た。
  宿毛市正和までの国道4キロは、一部に間道(旧道)を利用でき、一方で酒が感性をかなり麻痺させたのか、あまり辛いとも思わず、一気に通過する。正和から旧道、さらに市街地の遍路道であったと保存協会が推定する道筋を行く。
  市街中心部で、50gほどの大型ザックを脇に置いた外人さんが、遍路用の笠をザックの上に置いて食事をしていた。道の反対側だったので、手を大きく挙げると、挨拶が返ってきた。
  市街も一気に抜け、貝塚(貝塚が発見され、それが地名になっている)から山徑に入る。海へ向かって張り出している尾根を越えながら、錦、小深浦、大深浦の小集落を通過し、松尾峠への登りに掛かる。標高差300メートルでこの日の行程中では最大だ。
  しかし勾配も適度で、歩きやすい山徑のお陰か、推定より10分程度早く峠に到達した。休まず公園を思わせるなだらかな下りを行くと、独特の形状をした鍬を携えた老人とすれ違う。挨拶をして訊くと、やはりタケノコ取りであった。このころが旬なのであろうか。
  次第に下り勾配が急になり、2年前、歯を食い縛ってゆるゆる下ったときの思いが甦る。しかし足さえ痛めていなければ、歩いていることが楽しくなる快適な徑だ。200メートル下って舗装道路へ出た。さらに半時間で、この日の宿、大森屋に到着。時刻は3時半、歩行距離48キロだった。
  荷物を降ろして、靴紐をゆるめる前に近所のコンビニエンスストアへ明日の朝食を仕入れに行く。弁当も飽きたのでサンドイッチと牛乳、そして夜間用にお茶のペットボトルも買う。すぐに戻り、二階の部屋に荷物を片付け、一階の食堂(一般食堂としても商売している)でビールを飲みながら、明日歩く部分の地図とガイドブックでコースの下見をしながら、キロ程などを書き込んだ。
  この大森屋には過去二回泊まったことがあり、女将は朧気ながらこちらの顔を覚えていた。食堂とカウンターで繋がる厨房で夕食の支度をしていたこともあり、四方山話が続く。 彼女の連れ合いは隣接する自動車工場を経営し、義母が此処で食堂と宿を始めたらしい。旅館の後継者難から、遍路宿でも廃業するところがあるなどの話から、「私も継ぐ積もりはなかったけど、義母が具合悪そうなのに無理してやっているのを見かねて. . . .」継いだとか。それまでは25年間、公務員をやっていたそうだ。将来息子に嫁さんが来ても、後継者としては期待しないという。
  結局この日は同宿者が無く、一人でのんびり(それでも時間を掛けずに)晩酌を楽しんだ。夕食後に宿代を精算。一泊夕食とビール、酒五本で7,550円だった。

西欧人遍路
 

  四十番札所、観自在寺。
 

 4月19日も、3時起き5時発で行く。曇っているが、放射冷却がなかったせいか暖かく、15℃あった。 間もなく、小雨がぱらつき始める。風もないことだし、折り畳み傘で間に合わせた。途中、道を間違えたりもしたが、大過なく観自在寺に到着したのは7時だった。
  本堂と太子堂に挨拶し、直ちに次へ向かう。参道から表通りへ戻ると、前方に長身の歩き遍路を見掛けた。大型ザックの上からカッパをまとい、菅笠を被っているが、雰囲気が外国人風だ。追い越すとき声を掛けると、笑顔を返してきたのは、若い白人 男性だった。昨日、宿毛市内で見掛けた彼だろうか。 

室手付近から柏方面を眺める。海面に点々と見えるのは真珠養殖の筏。
 
 

 観自在寺のある城辺じょうへん から柏までの10キロは国道を歩き、景観にも恵まれないため、「ひたすら耐えるしかない」ところだ。 一応、歩車道分離がされているため、車の脅威にさらされずに済むことが救いだが、片側の歩道が突然途切れ、反対側に渡ることを強制されることも度々だから、その 都度腹立たしい思いをする。
  小雨が断続していたこともありともかく先を急いだ。緩い上り坂が続き、小さな峠を越えると視界が一気に広がる。眼下には室手もろでの 海水浴場、そしてその向こうの海原には真珠養殖の筏が。雨は止み、見上げる空は雲の動きが速いものの、明るくなってゆくように感じられた。
  道沿いに釣り具や餌を扱う商店があり、経営者らしい漁師風のオヤジが出てきた。黙々と歩くことにも飽きてきたところだったので、天候を尋ねる。「上がりますか?」。彼は長年海の仕事に携わってきた雰囲気を滲ませながら雲に目をやり、「イヤ、日中は持つかもしれないけど、まだ降る」と教えてくれた。その言葉通り、宇和島の宿で夜間激しい雨音を聞いたが、これは先の話。

 柏坂上の尾根から西方を望む。  

 室手から間もなく柏の村に入る。98年の5月にこの村の旭屋という旅館に一泊したが、そこへ着く手前で遍路道は右へ折れて内陸部に入る。
  柚川に沿って1キロ行き、そこから葛籠折れの急登が始まった。通称柏坂だ。標高差約500メートルで、この日一番の難所といえる。しかし登り始めると気持ち良く高度を稼ぎ、1時間ばかりで平坦な尾根に達することができた。
  林間の快適な徑は、この雨で湿気を含み柔らかくなっているものの、ぬかるんだようなところはない。取り敢えず難所は通過したが、まだ距離的にはあと40キロ歩かなければならない。焦る必要はないけれど、足を急がせた。
  20分ほどで徑は下りに転じ、しばらくして人声がすると思ったら、茶堂の休憩所に遍路の姿が見えた。ほとんど走り抜けるようにして通り過ぎたため、一瞥したのみだが、全員六十過ぎで、男性一人、女性三人に見えた。
  茶堂を過ぎると間もなく田畑や民家のあいだを行くようになり、道幅も3メートルほどになったけれど未舗装がしばらく続く。小祝から舗装道路、三島で(柏で別れた)国道56号にぶつかるが、道路下を横断し、村の中を通る鄙びた道が続いた。
  雨は止み、強い日射しに既に火傷状態になっている腕が痛む。たたんでいた折り畳み傘を日除け替わりに差すことにした。乾燥を兼ねて一石二鳥だ。

  昼飯を食べた「手づけ一本」。

  村を出ると芳原川の堤に設けられた自転車道路を行く。この道は津島大橋まで続くが、途中でこれを外れ食事のため国道へ出た。二回利用したことのある食堂「手づけ一本」へ寄るためだ。12時を廻っていたし、柏を過ぎれば此処が最初の食堂となる。
  03年3月、初めて寄ったときには、女子高校生十人ほどが、カラオケ前の腹ごしらえ中で、無闇にうるさく閉口したけれど、04年にはそのようなこともなく、比較的気に入っている店だ。
  最近見掛けることの少なくなったスタイルで、客がショーケースから皿に盛られた好みの総菜を選べる。つまみになりそうなもの二品を盆に取り、カウンターで冷や酒とジャコ天を頼む。これは注文を受けてから揚げるらしい。
  酒を運んできたオバサンは(私がシステムが判らずに冷たいまま持ってきた)二品を目敏く見付け、親切に「暖めましょうと」ショーケース隣の電子レンジで加熱してくれた。この二品と、間もなく出来上がったジャコ天で、冷や酒三杯を手早くのみ、半時間で店を出た。
  国道を通って津島町に入ると、前方を歩く後ろ姿に見覚えがあった。観自在寺のそばであった、西欧人遍路だ。すぐに追い着き声を掛けると、人なつこい笑みが浮かんだ。札所を歩いて廻るほどならば、日本語もできるのかと「今日はどこまで行きますか?」と訊いてみたが、反応がない。英語でもう一度尋ねたところ ONSEN と 答えがあった。 

  不法投棄防止のおまじない。
 

この辺りに温泉はなかったように思い聞き返すと、ポケットから「四国遍路ひとり歩き同行二人」を取り出した。受け取って付録の宿泊施設一覧で津島町近辺に温泉がないことを示すと、別の「温泉ガイド」があるからと、ザックを降ろそうとする。相手の行き先が見付からぬことを心配しただけなので、そこまで周到に情報があるならば、これ以上は「余計なお世話」になると、とどめた。
  しばらく並んで歩き、どこ(の国)から来たのか訊くとオランダとのことだ。過去二回訪れたことがあり、好きな国の一つでり、彼のように長身の人間が多いと感じたことなどを伝える。肯く笑顔は優しげで、声を聞かなければ女の子とも思うところだ。
  彼と別れ津島の繁華街を抜けると、「津島温泉」の存在を示す看板があった。帰宅後インターネットで調べたところ、宿泊はできないらしい。しかし彼のザックから考えれば、野宿、少なくとも寝袋の用意はあって、屋根さえあればどこでも一夜を過ごせるのかもしれない。
  緩い上り坂が続き、松尾トンネルへ導かれる。延長1,700メートルもあり、排気ガスが酷いらしい。そんなことでいつも手前から左へ逸れ、旧国道を辿ってゆく。距離にして1.7キロ、標高差は150メートル増えるが、歩くために来たことを考えれば、快適なこのルートを選ぶことに躊躇はない。
  旧松尾トンネルを通過してからは、単調な道路が続くことに辟易した。それでもとにかく歩き続けること1時間半、国道のバイパスが左へ逃げ、交通量が減少したため、気分的に歩きやすくなり、次第に市街地らしくなったところでインターネットカフェを見付けた。

  インターネットカフェ。
 

土曜日の夕方からメールチェックその他をしていないので、これを利用することにした。時刻は4時だから、残す距離から逆算すれば、半時間ほどを此処で費やしても良さそうだ。念のため今宵の宿、金竜荘に電話して、多少遅れるものの6時までには投宿することを伝えた。
  「漫画喫茶・インターネット」の看板は度々目にしたことがあるものの、利用するのは初めてだ。店内は空いていて、受付のカウンターに行くと、初めて利用する場合は入会金105円が必要で、あとは時間当たり399円、入会時には身分証明書の呈示が必要といわれる。
  運転免許を持たないので、顔写真付の証明書となればパスポートしかなく、これは持参していない。しかし健康保険証でも良いとのことで、何とかインターネットに接続できた。イタリアでパスポートの提示を求められたことを思い出し、国際的にテロその他犯罪対策としてうるさくなっていると推察する。
  重要なメールはなかったもののそれなりに面白いものがあり、予想外に時間が経過する。それでも40分で切り上げ、4時40分には店を出た。
  宇和島城にぶつかり、堀に沿うようにして半周、宇和島駅そばの踏切で鉄道の北側へ行き、再び旧国道に合流する。コンビニエンスストアを見付けて翌朝の弁当を調達。そこから20分の頑張りで金竜荘に到着したのはほぼ6時ぴったりだった。 この日の歩行距離54キロ。
  この宿にも03年、04年の春に泊まっているが、職人の長期滞在が多く、遍路は稀、一般宿泊客はまずいないように見受けられた。この日は職人の多数グループが二ついるらしく、もう一人先に到着していた遍路を合わせ、満室状態らしい。
  女将は「個室を用意したかったけれど、とにかく今日は大勢で、一部屋をアコーディオンカーテンで仕切ったところで勘弁してください。お隣もお四国さんです」と恐縮する。こちらにしてみれば襖でもアコーディオンカーテンでも大差ないし、仕切られた部屋の広さは八畳( 仕切らなければ十六畳)と充分だからなんの不満もない。
  女将が階下に去ったあと、一応隣の人に「明日早立ちのため3時起きし、多少物音でご迷惑を掛けるかもしれない」と、断りを入れておく。返事があり「私も早立ちを考えている」とのことだった。
  夕食時には女将が席を配慮してくれ、その人と言葉を交わすことになった。札幌から来た松田さんで、遍路は初めてだが一番から通しで歩き、一日30キロ程度を目安にしているらしい。年齢的には六十過ぎ、雰囲気は定年後のサラリーマンが何かを求めて遍路しているような感じだった。

歯長はなが

いつも通り3時に起床する。「早立ち」を口にしていた松田さんだが、一向に起きる気配がないまま、こちらは5時に出発する。 これまでの四日半の183キロは、ひとえにこれから歩こうとする50キロの前段に過ぎない。改めて静かな闘志を燃やす。
  遍路道を若干はずれ、国道に面し定置する金竜荘からは、 JR予讃線を渡って遍路道である県道57号線までさえ注意すれば、もう迷いようもない一本道だ。多少障害があったのは務田でJR土讃線をまたぐ陸橋が工事中のため通行禁止になっていたことぐらいか。しばし考えたが、バリケード等もいい加減な設置だったので、工事現場を横切り、 仮設足場で線路を越えた。

 食堂 長命水。
 
龍光寺大師堂。
 
 本堂。
 

そこからは田植えの既に完了した田圃の中に続く一本道を行き、龍光寺に着いたのは6時20分だった。門前の食堂、長命水は既に営業を開始している。
  2年前に此処を通過したとき、6時半に暖簾が翻っていることを訝しく思いながら、「仕舞い忘れ、あるいは放置」と考えていた。しかし昨晩金竜荘の女将から聞いたところでは、いつも6時半から営業しているそうだ。確かに早出して先を急ぐ遍路ならば、ある程度の行程をこなしてから此処で朝食を摂り、7時からの納経ができれば有り難いことだろう。
  しかしそこまで実行する遍路の数が多いとも考えられないから、とどまるところソロバン勘定では引き合わないことを、「遍路のためを思えば」できることか。奇特なことだと思う。ガラス戸越しに、湯気が上がる奥の厨房で忙しげに立ち働く年配の男女が見えた。主とその連れ合いだろう。
  龍光寺には、地元の人か、普段着姿でお参りをしている姿があった。大師堂、そして本堂に挨拶し、ついでにトイレを拝借して寺を退去する。

 左:龍光寺から遍路道への入り口。右:県道31号線への合流点。
 

  龍光寺から遍路道への入り口は、保存協会の道標が一本あるだけで判り難い。最初に廻ったときは、ビギナーズラックかはたまた地図を慎重に見たためか無事利用できたが、二回目には「四国のみち」の大きな道標に惑わされ、1.5キロも余計に歩かされた。
  その恨みが大きいから、以降間違えることはないと思うが、ガイド的な資料と逆回りする際にはさらに判り難いことを考え、入り口と出口(県道との合流点で逆回りするならば入り口)の写真を撮る。

仏木寺本堂。
 
左:歯長峠への途上、本村川流域を振り返る。右:歯長峠。
 

 県道31号線は交通量が少ない上に両側に歩道の整備された歩きやすい道だ。2年前に歩いたときは道路に沿って植えられたチューリップが見事に咲いていた。再見できるかとの期待があったけれど十日ほど遅れたせいか、ほとんどの花は既に散っていた。
  仏木寺に着いたのは7時2分、参拝者の姿はない。それでも話し声がするので見回すと、バアサンが二人、堂宇を掃除しながらその内外で世間話をしていた。
  仏木寺を出ると、この日最初の難関である歯長峠への登りが始まる。登りの標高差は290メートル、下りが280メートルあり、足を痛めている身には、下りで誠に辛かったことが今も鮮明に甦る。
  山徑を登り初めて20分、一旦県道31号と合流し、しばらく先でもう一度山徑に戻る。急な登りだが100メートルの標高差をこなすと、あとは斜面を横断するようにして緩やかな登りが続く。振り返ると朝日を受けて山脈が輝き、足下には建設中の高速道路が見える。尾根筋に白く拡がるものがあり、その正体を確かめようと単眼鏡で覗く。ビニールハウスの連なりと判り驚いた。
  歯長峠を越えたのは8時だった。明るく気持ちの良い峠だが、周囲を立木に遮られ、眺望としては良くない。それも全く見えないわけではなく、「垣間見える」分、変な欲求不満が残った。
  峠からの下りも快調に行く。傾斜は急すぎず緩すぎずなのだ。それでも一旦足を痛めてしまえば、一歩一歩歯を食い縛るようにしてゆっくり降りるしかない。半時間ほどで麓に着き、改めて体調の良さに感謝した。
  肱川に沿う県道29号線を歩く。道幅に余裕があり、交通量も少ないので、左手に拡がる田圃の代掻きや田植え風景を眺めながらのんびりとしかしスピードは落とさずに歩く。
  途中、携帯電話で話し中に、通りがかりの年配婦人に声を掛けられた。慌てて電話を切り、改めて話を聞くと「すぐそこにも大師堂があるので、小さいけれども拝んでいってください」とのことだった。
  大小に関わらず拝まないのが主義だけれど、大事にしている人の気持ちを踏みにじることもしたくない。大師堂の前に着いて、彼女の方を見ると、こちらのことに気をとめず歩いて行くので、こちらもそのまま失礼した。

 左上:肱川。右上:明石寺山門。左下:本堂。右下:大師堂。
 

卯之町の手前で旧道は右に分岐し、さらに遍路道は旧道から右へ分岐する。この辺りまでは判ったが、その先で迷ってしまった。松山自動車道が旧来の道路網を滅茶苦茶にしているのに、地形図の方はそれに追い着いていない。
  頼りにしたい保存協会の道標もないまま、「ともかくあの山上に明石寺があることは間違いない」と適当に道を選んでいたら後ろから小さくクラクションを鳴らされた。見ると軽自動車に乗った老夫婦で、運転しているジイサンが右へ行けと指している。
  いわれた通り曲がると、その車も着いてきて脇に停まり「あの白い屋根のところを右へ. . . .」と細かに教えてくれた。車が去って行くのを目で追うと、わざわざ説明するために右折したのだと判った。有り難いことだ。明石寺に着いたのは10時10分前、まずは順調な進み具合に満足。

安井食堂

卯之町には寄りたい店があった。3年前偶然食事をしたところで、なんの変哲もない大衆食堂、オバサン食堂だが、彼女の人柄と、メニューが品数多く、飾り気ないながら旨くて安いし、店の雰囲気もそれに見合って心地よい。休廃業していない限りは此処での昼食を楽しみに決めていた。
  快調に歩きすぎて、開店時刻より早いかと心配したのも杞憂で、10時15分に店を前方に眺めると、暖簾の翻っているのが見えた。店に先客がいなかったのは時刻からして不思議はない。顔を覚えていてくれて言葉を交わし、前回から早2年経ったことを告げる。
  冷や酒と野菜炒めを頼み、お品書きを眺める。2年前まではB5の紙にびっしりと手書きされ、所々に着けられた☆印は「お勧めメニュー」とのことだったが、今あるものはワードプロセッサーを使用し、整理された分、面白味が減ってしまったものだった。
  三杯目の冷や酒をチャンポンと一緒に頼む。かつて☆印メニューだったのだ。昨日、あるいは一昨日もチャンポンを食する機会はありながら、此処のものを目当てに我慢してきた。それほど格別ということはないけれど、思い出の味は旨かった。
  半時間で昼飯・昼酒を終え勘定を締める。酒三杯に野菜炒め、チャンポンで2,050円。「やはり此処は
安い食堂だね」といいながら支払った。店を出ようとすると、一旦奥に姿を消した彼女に呼び止められた。振り向くと手の上に 伊予柑を二つのせ「良かったら持って行って」と差し出す。
  好意は有り難いが、今日の目的地、内子まではまだ24キロほどあり、鳥坂とさか峠も越えなければならない。 大した重さでないようでも、長い距離を歩くとこたえてくることを説明し、重ねて「お気持ちだけを有り難く. . . .」といった。感謝の意は通じたと思うのだけれど。

同行者

肱川の扇状地をひたすら北上する。ちなみにこの辺りで肱川は南へ流れているが、直径20キロほどの円を描くようにして曲がり、鳥坂峠の向こう、大洲で再び下流に出会うことになる。田圃の中に続く国道56号線は半分くらいがバイパス化され、旧道をたどれるのが有り難い。
  次第に両側から山が迫ってくるが、田圃の中にある瀬戸の集落で、500メートルほど前方に白装束が見えてきた。急速に接近してみれば、定年遍路風だ。追い着いて挨拶すると振り返って顔をほころばせる。挨拶に続いて「埼玉から来た今村ですが、同行をお願いできないでしょうか?ペースはあわせます」とのことだ。 

 鳥坂峠への分岐点。
 

  正直なところ同行を望むものではないが、拒むつもりもなく、さらに云えばペースを変えるつもりは全くない。そんなことで言葉を交わしながらも、毎分140歩のメトロノームが刻むピッチは保ち続けた。彼は大洲を目指しているそうだ。100メートルも行かないうちに彼の息が上がるのがはっきり判り、間もなく「イヤ速いですね。とても着いて行けません」という。返す言葉もなく、そのまま先行する非礼を詫びて歩き続けた。間もなく鳥坂峠への分岐点に至り、振り返って見ると、200メートル以上離れているが、それなりに頑張って歩いているらしい。
  分岐を過ぎると道の曲折も大きくなり、やがて山徑となれば視界は限られる。彼の進み具合は気になるもの、鳥坂隧道を通れば道に迷うこともないだろうし、時刻も早いことを合わせれば、心配するようなことは何もなさそうだ。

鳥坂峠直前から肱川扇状地を振り返る。
 
鳥坂峠。

  当面は自分の歩きに集中することにした。分岐から峠までの標高差は200メートル、これに水平距離1.5キロを併せ、40分ほどを目標登坂時間として頑張る。樹林帯の中に続く徑は明るく歩きやすい。傾斜も手頃で、あえぐほどではないが高度が稼げずいらいらすることもない。
  やがて斜面をななめに登るようになり、峠が近付いたことを感じる。振り返ると今し方歩いてきた肘川扇状地が細長く延びている。
  峠に着いたのは1時14分だった。一気に大洲まで駆け下り、そこから10キロの内子なら4時半頃には辿り着けるだろうか。そう目算すると、僅かながら胸の疼きを覚えた。
  同行者を振り切るようにしてひたすら歩いてきたのは何のためだろうか。宇和島から内子をいかに速く歩けたかを誇る、世間に対する見栄ではないか。そんなことならば、歩く経験も力量もまず間違いなく下回る彼と、しばらく歩行を共に幾ばくかのサポートをして、内子へ着くのが1時間くらい遅れても良かったように思われる。
  しかし今更どうしようもないことで、此処で待っていても彼はトンネルを通過しているかもしれない。再び自分の歩きに専念することにした。
  峠から10分ほど下ると、未舗装ながら車が充分通行できる林道に出た。間もなく車のエンジン音が聞こえ、視界が開ける。足下あたりが鳥坂隧道の出口らしい。彼方に松山自動車道の橋梁が見え、大洲はさらにその向こうだ。改めて地図を見ると、一気に駆け下りるのは無理な距離だった。

鳥坂トンネル出口付近の旧道から見る大洲方面。中央に架かる斜めの橋は松山自動車道。
 
  林道に並べられたほだぎ。白い点々は駒。ちなみにしいたけはこの地方の名産らしい。

 道標がありななめに下るとバス停と表示されている。急ぐならば此処からすぐしたの国道に降りればよいが、時刻も早く、体調が充分な今、車の騒音と排気ガスに晒されて歩くつもりはない。
  林道はその先でしいたけのほだぎ作りに精をだす5人ほどの集団に出会ったが、車を見掛けることはないまま札掛けまでまで辿り着いた。
  此処で再び国道と交差するが、下をくぐって旧道を引き続き行く。とはいえ、この辺りからは充分な路肩を持った相互一車線の舗装道路だ。そして道路の整備状況は良いのに、通行する車両はほとんどない。
  交差点からしばらく行ったところで、路傍で働く年配の農婦二人を見掛けて挨拶、ついでに道を尋ねた。戻って国道を行くよういわれたが、旧遍路道を辿りたい旨を伝えると「それじゃまっすぐ行って、農道を下りなさい」と教えてくれた。
  鳥坂峠を越えてから、極端に道標が少なくなり、札掛けで一つ見掛けた後は全くない。地形図を頼りに、「そろそろ農道」と注意してゆくと、確かにその辺りに道はあった。道幅は3メートル程度で、小型車が充分に走ることができるものの、遍路道ならばありそうな人が歩いた形跡はさっぱりない。
  しばらく迷って地形図を信じることにしたが、大きかったのは先程の農婦に教わっていたことだ。農道を一気に下ると舗装道路があり、地形図上でも確認できた。そこから10分ほどで大洲北インターチェンジ付近に出る。時刻は3時半を過ぎている。しかし大洲の町まではさらに半時間を要した。
  大洲の街並みは趣のあることで四国有数と思われるが、それを楽しむ余裕もなく通り過ぎた。肱川橋を渡り、新市街へ入る。2年前にダウンして二泊せざるを得なかったビジネスホテル・オータの前を通過し残り7.5キロと計算した。
  国道を歩きながら地形図を眺め、次第に距離がおかしいと感じ始めた。7.5キロの根拠は「四国遍路ひとり歩き同行二人」の数値だが、全て正しいという保証などない。先ばかり急いでも仕方ないと、歩みを止めてじっくり検討した。どうやら実際の距離は4.5キロ程度長いらしい。
  到着時刻を再計算すると、6時はかなり厳しそうだが、延着を宿に電話が必要なほどではない。ともかく次第に黄昏れてゆく国道を急ぎ、JR内子線の五十崎駅付近で間道へ逸れたときはホッとした。あとは記憶に残る野道を行き、運動公園を抜けて内子駅下を通過、内子の商店街に着いたのは丁度6時だった。そこから宿の新町荘までは1分だった。
  鳥坂峠では、同行者を置き去りにしたことを後悔したが、実際にはそれほどの余裕はなかったのだ。他人のサポートを考えるには未熟すぎるようだ。
  この日の歩行距離は54.8キロ(実際はもっとあったように思われる)で、4日半の合計は238キロとなった。細かい点で不満はあるものの、 「足が酷い状態にならなければ(軽い肉刺は足裏にできた)加齢による衰えがあってもこの程度は歩ける」と再挑戦としては充分満足して旅を終える。

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